すぐ寝ちゃう

だから何もできずに死んでく

夫のちんぽが入らないをよみました

笑える話ではなく、悲惨な物語でもなく、劇的でも、素晴らしいものでも、美しいものでも、汚いものでもなく、ただ、一人の人の半生が書いてありました。

 

夫のちんぽが入らない

 

読みました。

同人誌がネットで話題になっているのを見て、読んでみたいと思い数か月。発売前に特設サイトの試し読みを読んで、昨日仕事終わりにどうしても読みたくなり、家から20分の少し大きな本屋へ行き(本当は前の日に駅前の本屋に行ったけどみつけられなかった)立ち読みし、ちょうどアリハラさんのところで度肝を抜かれ、タイトルを持っていくことに逡巡し、結局買って帰って、ご飯も食べずに読み切ってしまった。

しかしもって、140字で感想を書くのは失礼だなぁとか、僕みたいな若造がなにがしかを書いていいものやらとも思いましたが、何かを書きたくなったのでここに書きます。

失礼だなぁと思うのは、この本に敬意を感じたからです。敬意というのはこだまさんという一人の人間、一つの人生へのリスペクトです。

18歳から38歳までの20年間が、夫のちんぽが入らないという一つのテーマを主軸として、倒れかけのコマのように行きつ戻りつしながら描かれていく。作中で書かれているエピソードも毒親との関係、教職の挫折、自傷のようなセックス、不妊、どれもが一冊の本を書けそうな内容でもあって、もっともっとたくさん書けそうだし、もっともっと大げさにかいたり面白おかしくしたっていいような気もするのだけれど、静かな筆致で、見たものを見たまま、思ったことを思ったまま書かれている。

ふと感じるのは、これは私小説で、出版されているものではあるけれど、読者である僕たちのために書かれた本ではなく、本当に保険外交員や職場の女性教員に言えなかった言葉の反芻かもしれないし、家族や旦那さんへの今まで言えなかった秘密の告白なのかもしれない。

でもだからこそ、言えなかった言葉や、言ってほしかった言葉。過去にあった躓き、そしてそこから解放された、赦された時の高揚。自分の人生にあった節目の出来事が頭に浮かんで共感をしてしまう。自分のことだけじゃなくて、あの時あの人はこう思っていたんじゃないか、なんて申し訳ない気持ちもよぎったりなんかもしていた。

絶望に陥った時ってなんとか頑張って逃げ出そうと必死にもがくんだけど、上手に這い上がっていけて大満足なんてことはあんまりない。気が付いたら全然違うところに出ていたり、一生懸命になっていたら這い上がろうとしてたこともすっかり忘れてたり、かと思えばまた違う場所に落っこちたり。ずっと絶望に囚われながら生きていくこともできないし、一生絶望と向き合わず生きていくこともできない。これはだれだってそうなんだと改めて感じた。

いろんな人がいて、いろんな考えがある。小学生の時道徳の授業で習った当たり前のことだけれど、生きていると常識とか、当たり前とか、偏見で自分の頭がいっぱいになっていることを忘れてしまう。

"幸福な家庭はみな同じように似ているが、 不幸な家庭は不幸なさまも それぞれ違うものだ。"

みんな幸せだけじゃなくて不幸だって抱えていて、その形はみんな違う。だからそれぞれの人生があって、どれも深みがある。

これは小説だから、こだまさんは最後に一つの境地に達して、今の自分を肯定することができるようになって、物語は終わるのだけれど、人生が終わってしまうわけじゃない。きっとこれからもっといろんなことが起きていく。この本が出版されたこともそのいろんなことの大きな一つだ。

こだまさんには、いや、僕にだって、誰にだって、これから、好きな人のちんぽが入らない悲しみよりも大きな悲しみが訪れることがあるかもしれない。でも後になって、その傷が癒される、そんな人生の道が続きますようにと願っている。